2005年 09月 26日
「学校給食に弁当の日を設けることについて」という決議が
「学校給食に弁当の日を設けることについて」

                という決議について





決議(案)文を読むと

「学校給食はもういらない」と言っているようにも読めるのですが、イヤイヤ待てよ…
そんなことは最後の「センターがなくなれば」のところで直接的な言いようになってるけど、どうも違う。
「食育」やら「愛情不足」と豊かな時代においての「学校給食の使命の終わり」がどうして「弁当の日を」になるのか全くわからない。

第一、
子どもを育てている保護者が、何故このようなこと(愛情不足・食育を弁当でしろ)を議会から言われなきゃならないのか?

市町村に置かれた機関の1つである「議会」としての意思決定にとどまる(強制力を持たない)内容の議案ですが、誰がどんな風に反対しようと、議決の宣告があったときから議会全体の統一した意思ということになります。

私は、「学校給食廃止のために弁当の日を」と言うのなら当然断固反対です。

「給食は子育て支援」と思っています

しかし、この議決(案)文の内容を吟味すると、「食育」「愛情」「多様性」「選択」等々の言葉が並んでいて、つまり弁当の日を設けて親子の愛情関係(?)を見直せ…?って言ってるの?

よく分からない。



こんなことが、議会で審議されて、議会の意思として議会から言われるなんて、私は子どもを育てている母親として堪えられない。

なぜ、議会からそのような事を言われなきゃならないのか。




子育ての方法には、その人が歩んできた人生や生活体験が強く反映されます。

一人一人の親にはそれぞれ違う人生があり、違った価値観を持ち、違うやりかたで、みんなわが子を慈しみ育てています。これは、どこの誰にも強制や指図を受けることのない、真に個人の領域だと思います。だからこそ、例えば子どもが非行や犯罪を犯した時に「親の顔が見たい」「どういう育て方をしたんだ」「責任を取れ」と世間から責められるわけです。

そういう責任や悩みも含めて、全てが子どもを持つ喜びです。子どもを育てることによって親も成長していきますが、その方向性を決めるのもまた親自身であり、多様な価値観と方向性の中でそれぞれが「わが家なりの暮らし」を作っていると思います。

議会が、家庭や個人の心の内面に踏み込んだ方向性を指導するような議決をしていいのでしょうか。いいはずがない。

こういう審議の席にいるということ自体が耐え難い。私の仲間たちの多くも同じ意見でした。

審議から退席することにしました。


もっとも私は「除斥」の対象になって退場を求められていたようなので、退席しなかったところで審議には当たれませんでした。


「除斥」・・・・ 議長・議員は,自分自身あるいは父母,祖父母,配偶者,子,孫,兄弟姉妹の一身上に関することがら,またはこれらの人の従事する業務に直接の利害関係のあることがらが議題とされるときには,議場から退席しなければなりません。このことを「除斥」といいます。ただし,とくに議会の同意があったときには,会議
に出席し,発言することができます(地方自治法117条)。



私が「除斥」の対象となったのは、当番で「鷲宮町PTA連会の会長」を引き受けているので、公正な立場で審議に当たれないという理由らしいです。

(除斥については何が利害関係なのか理解できないし、納得できるものではないのですが)


例えば、コストの面とか今後の給食センターの運営についての直接的な提案ならば、審議に参加する必要があったと思います。

しかし、この内容ではPTAの皆さんに説明のしようがない。

議決されれば「私は反対したよ」と言っても議会の意思は議会の意思です。

だから
審議が始まる前から「退席」しました。



住民の代表、お母さんの代表として、「こんなことは議会から言われたくない」「議会で議決することではない」「審議されたくない」「審議したくない」



私の取った行動は、賛否それぞれあるのでしょうが、私はこの自分の行動に責任を持つつもりです。

私を選んでくれた人から疑問や異なる意見が出されたら真摯に受け止め、思考を深めたいと思います。また、このつたない文章では伝わりにくかったであろう私の考えや立場を、時間をかけて十分説明していきたいと思っています。







[PR]

by ootani-kazuko | 2005-09-26 21:36 | 2005.9.議会


<< 2005年11月 臨時議会のご報告      神楽を受け継ぐ鷲宮中学校・・・... >>